初めて煙草を吸った日
僕の祖父は、喫煙者だった。
畳の足ざわりがお気に入りで、よく祖父の部屋で遊んでいた。
座椅子に座り、祖父のパソコンを借りて、面白フラッシュを見ていた。
お手製のビニールの仕切りの向こう側で煙をくゆらせる祖父の背中から言い知れぬ力強さを感じた気がしていた。
祖父の吸う、煙草の匂い。
銘柄は知らない。けれど、なんだか好きな匂いだったことを覚えている。
これが大人の匂いなんだ、と思った。
祖父に一度だけ殴られたことがある。
それは、祖母にわがままを言って困らせた時だった。
どうしても買ってほしいおもちゃがあって、買い物に連れて行ってほしいとわめいていたのだ。
事情を聞いていた祖父がすっと近づき、こう言った。
「歯、食い縛りなさい」
はーっと右手の拳に息を吹きかけたかと思うと、
僕は両目が飛び出たかと思った。
ぶっ倒れはしなかったものの、その場で尻もちをつく。
痛みよりも先に、「祖父に殴られた」というショックで涙が出た。
頬は痛くなかった。
「誰かを、自分の都合で困らせるんじゃない」
胸ぐらをつかまれ、立ち上がらせられた。祖父の目から、視線を外せなかった。
視界の端で、祖母が「叩くことないやろ!」と祖父に向かって怒るのが見えた。
その声を聞いた瞬間に、僕は跳ねるように立ち上がってその場から逃げ出した。
真っ暗な自分の部屋の隅に丸まって、声を殺して泣いた。
すごく、恥ずかしかったから。
殴られた左ほほよりも、溢れる涙の方が熱かった。
おもちゃなんて、いつでも買えるじゃないか。
なんで、おばあちゃんを困らせるようなことをしたんだろう。
そんな自分が恥ずかしくて、泣いた。
家族が煙草を吸っていると、その家庭の子供は煙草を極度に嫌うか好きになるかのどちらかが多い、という。
それから約10年後。
僕は、先輩にもらった煙草を吸った。
結局、好きでも嫌いでもなかった。
ただ、「あの日俺を殴ったじいちゃんの拳はどれだけ痛かったのだろうか」と考えた途端、煙の味がヘンになった。それだけだった。
じいちゃんは、俺が高校のときに煙草をやめた。
理由は聞いてない。
けど、なんだか小さくなってしまったその背中からは、今も言い知れぬ力強さを感じるのである。