書評企画「読書は魔法ではない。」を始めます。
だいたい70冊。
大学に入ってからこれまでの2年間ちょっとでぼくが読んだいろいろな本の数(漫画・雑誌除く)だ。図書館で借りた本はカウントしていないから、ホントはもうちょっとあるはずだ。
読書は、ぼくのたった20年の人生の中でも薄くとも絶えず続いてきた数少ない習慣のひとつだ。
小学校の時に児童文学にはまったのが始まりだった。
中学高校の時はあまり捗らなかったけど、それでも辞めなかった。受験が終わると、「竜馬がゆく」を貪るように読んだ。
大学に入り、世界や日本のトップレベルで勝負を仕掛ける人たちを間近で見て、知識をつけたいと思った。そんな気持ちから実用的な本ばかりを読むようになった。
昔からどんな時も、本の中にはぼくの知らない世界があった。
本を読めば知らないことを知ることができた。
自分が大きく、強くなった気がした。
だけど、それは本質だったのだろうか。
ぼくは本当に強くなれたのだろうか。
先月読んだ、瀧本哲史の「読書は格闘技」(2016)の冒頭の一文にハッとさせられてから、読書という行為を見る目が変わった。
(前略)書籍を読むとは、 単に受動的に読むのではなく、著者の語っていることに対して、「本当にそうなのか」と疑い、反証するなかで、自分の考えを作っていくという知的プロセスでもあるのだ。
ぼくのなかで、読書は受動的に楽しむ「芸術」だったから、この視点はかなり衝撃だったのだ。
ぼくの児童文学の読書体験は、「ハリーポッター」はもちろんのこと、知る人ぞ知る名作「バーティミアス」三部作や「マーリン」シリーズ、それに「ストーンハート」三部作に「ダレン・シャン」シリーズによって「西欧文明×ファンタジー」を形作り、最終的にはコルネーリア・フンケというドイツの女性児童文学作家にはまって「どろぼうの神さま」「魔法の声」「魔法の文字」などで表される「現実世界×魔法」という形で収束した。
それらの作品にはそれぞれの世界があり、ぼくは文章をなぞりながら心の中に登場人物の姿や街のアウトラインを描き楽しむことを覚えたのだった。
そんな原体験からか、ぼくは大学に入って本格的な読書を再開してからも、どちらかというと著者たちの声やその内容を鮮明に心のなかで展開し、言っていることを吸収する、という極めて受動的な読書をしていた。児童文学にはまっていたころのように、コルネーリア・フンケがテーマとしてかかげていた「魔法」にかかろうとしていた。
しかし、それは本質的ではなかった。
本を読んだからといって、現実のぼくがレベルアップするわけではない。
人は、本を読むことで考える視点を得る。(著者の言っていることは果たして正しいか?)
そうやって考えた結果から行動を起こすことで、初めて何かが変わる。
ぼくは、読書の持つ本当の力はそこにある、と今だからこそ思う。
読書は魔法ではない。
読書は、魔法ではない。
読書は、ぼくがそこに能動的に関わって初めて完成する。
だから、これからは読んだ本は書評として残すことにした。
書評の裏側にあるのは、リアルのぼくの人生、つまりはひとつのストーリーだ。
読書は魔法ではない。現実と戦うためには、ファンタジーは必要ない。
現実のぼくのストーリーと、書評を絡めてここに書いていく。
そういうことを、これからはじめようと思う。(1346字)