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世の中、ずるいやつばかり。

「未来に先回りする思考法」の感想 - テクノロジーと親鸞とあと何か

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順調に日々読書を進めている今日この頃でございます。

今回読んだのは、metapsの佐藤航陽さんが著書のこちら。

 

未来に先回りする思考法

未来に先回りする思考法

 

 「未来に先回りする思考法」(2015)です。

 

大まかな内容としては、各章のタイトル通り、

  • テクノロジーの進化には一本の「流れ」がある
  • 現在の社会システムの状況を流れから考えるとこの先どうなるか
  • テクノロジーの今後はどうなるのか
  • 未来に先回りする意思決定法

といった具合です。これらが過不足なく述べられています。

 

中でも、テクノロジーの「流れ」の話、社会システムの話はとても体系立っていてわかりやすく、一読の価値ありです。

「必要性」がないところにイノベーションは起きない。その通りだと思います。

 

佐藤さんも書いている通り、テクノロジーの進歩は加速度的に進んでいてもはやその全体像を把握できている人はいないでしょう。

例えば、先の年末に発売したWIREDのAI特集号

WIRED VOL.20 (GQ JAPAN 2016年1月号増刊)/特集 A.I.(人工知能)

この中に、チェスや将棋はAIが勝りつつあるが、「囲碁」に関してはまだまだ人間の方が上だ、勝てるようになるのは10年先だという記事が寄せられています。

 

 

しかし、ご存知の通り先日、Googleが2014年に買収したDeepMind社の「AlphaGo」という囲碁ソフトが欧州チャンピオンを下した際の論文が発表されました。

wired.jp

 

 

もうこんなところまで来ているのです。

速い!

 

 

さて、僕はつくづく良い時代に生まれたなと思います。

テクノロジーの進歩のカーブが急激に上向く直前に生まれた世代だからです。

旧時代の技術ややり方を理解しつつ、急上昇するテクノロジーとともに育ち、そしてこれから、最も脳のパフォーマンスがすぐれている段階で関われる。こんなに良いタイミングはそうそうないでしょう。

 

ここからは「必要性」の話をします。

 

 

冒頭の画像に載せた親鸞の言葉。

これは、彼が9歳の時に当時の天台座主天台宗総本山たる比叡山延暦寺の住職)だった慈円を訪ね、得度(僧侶になるための出家の儀式)を頼んだ際、すでに夜だったので得度は明日行おうと言われた際に詠んだとされる歌で、

 

「今美しく咲いている桜は明日もあるだろうと思っていたら、夜の間に嵐が吹いて散ってしまうかもしれない」

つまり、

「明日自分の命があるかはわからない、だからこそ今を精一杯大事に生きていきたい」ということ。

 

本当に9歳の時にそこまで悟っていたとしたらさすがは親鸞上人!という感じです。

 

世の中の無常や人生の儚さを説いたとされるこの歌ですが、その時の親鸞は「今を逃してはならない」と思っていたのではないでしょうか。

 

少し日本史の話をします。

彼が生まれた時代は平安末期。末法の世が到来したと言われてから数十年が経ち、保元・平治の乱があり、貴族による統治から武家による支配に社会システムが変わりつつあった頃でした。

 

そして、彼がこの歌を詠んだ9歳の年、つまり1181年には養和の大飢饉が発生します。

 

洛中の死者は4万2300人(鴨長明方丈記』)に及び、

「築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変わりゆくかたち有様、目もあてられぬ事多かり」

といった具合に街中に遺体が溢れ異臭を放っていたという地獄のような有様でした。

ここぞとばかりに上洛し兵糧を徴発した木曾義仲と、逆に年貢を納入して東国支配権を得た源頼朝。時代の明暗を分ける戦いが行われ……

 

 

後の展開は誰かが語るに任せるとして。

 

このように社会システムが大転換する様を幼い親鸞は目の当たりにし、「自分が仏門に入ることでこの末法の世を少しでも救えないだろうか」と考えたのではないだろうか、と僕は勝手に思っています。

 

その後。法然に師事し、彼がその教えを伝えるために始めた浄土真宗は現在に至るまで続いています。この狭い日本においては、確実に歴史的存在感のあるコンセプトを打ち立てました。

 

その始まりの背後にあった(と思う)のが「時代が生んだ必要性」です。

「壊滅的状況を打破しなくてはならない」必要性が、彼に出家を決意させたのではないでしょうか。

 

 

 

この時ほどではないでしょうが、現在の日本にもある程度の「必要性」は存在していると思います。

 

全国に漂う「誰かがなんとかしてくれるだろう」という他力本願。

「その誰かがすごいということは自分もすごいということ」という狐仮虎威。

 

これらの「日本人の怠慢」は、現代日本人の生活における「必要性の見えなさ」から来ていますが、逆に、「これを打破しなくてはならぬという必要性」にもなっています。

 

僕はこれとは違う気持ちに必要性を感じて毎日を過ごしていますが、多くの人に当てはめられる必要性といえばこの「怠慢打破」なのではないでしょうか。

 

これに多くの人が気がつき、行動にまで落とし込めれば、未来に先回りする人々がもっと登場して面白い時代になるのに、どうやら時代の方はそれを待ってくれなさそうなのが残念な所です。

 

まさに、「明日ありと思う心の仇桜」といったところでしょうか。

 

それでは今回はこの辺で。次回は、打って変わって「CRM」に関する本でも読もうかなと思っています。さよなら。