精神的にやっちまった時の回復方法を教えてください
渦はいろいろ余計なことを考えて気を紛らわすことにした
なんか、めっちゃお久しぶりですね。渦でございます。
とりあえず夏休みリストを確認してみましょう。
- 地方で1週間以上過ごす
- 現地の同世代と友達になる
- 夏祭りを楽しむ
- 野外フェスに行く
- 意味もなく徹夜で遊ぶ(クリア)
- 山へキャンプに行く(予定は立てた)
- アコギ弾き語りライブ
- 海でのんびり釣り
- 2億円当てる
- 彼女
- 新しいイケてる商品を創る(進行中)
- 英語での「書き・喋り」を鍛える(まだ)
- HTML+CSS+JSでサイトを作る(まだ)
- サマーインターンで結果出す(まだ)
- 今年こそ免許合宿へ(無理…?)
- 作曲:アルバム自主制作(まだ)
- 何でもいいから賞を取る(まだ)
- 親に「ありがとう」を伝える(そのうち)
- 仲間と協力して結果を出す(まだ)
- 毎日必死に生きる(ちょっと出来てるかも)
いろいろ考えて、僕は家を離れた方がいいと思い立って、今は違うところにいます。
都会のど真ん中。すると、結構いろいろ頑張ろうという気になっています。
住むところを変えると人は変わる、って本当っぽいなあ。
あ、居候みたいなもんです。
で、ちょっと今日やらかしてしまったのです。
そこそこダメなやらかし。怒られました。
僕が100%悪くて、人に迷惑をかけてしまいました。
その事実に本当に耐えられませんでした。
僕は「誰かに迷惑をかけてしまう」、ということに病的に抵抗があるのですが、それをやらかしてしまい、割と本気で狼狽しました。
それとは別件で、先輩に自分を褒められてしまい、なんかもう「自分はそんなに言ってもらえる資格ないのに」と苦しくなってしまいました。
いい加減認めます。
僕はあまり「できない」人間です。
というか、努力を重ねて来られなかった人間。
だから今回みたいな単純なミスをする。
その事実を突き付けられるともう本当にどうしようもないのですが、ただただ凹んでしまいます。
どうしよう。「ごめんなさい。申し訳ありませんでした。」
そう言うしかなくて、「別の部分で挽回する」としか言えなくて、
許してもらえなくて、
くるしいです。
とりあえず音楽を聴いて落ち着きました。
この後、まだやることがいっぱい残っています。
どうしよう。
みなさんが凹んだ時に元気になる方法教えてください
【18卒】サマーインターンの選考って、高校生の告白みたいだよね【不合格】
昨日の午後6時。土砂降りのゲリラ豪雨が降る新宿のいつものオフィスで僕の電話が鳴った。
こんな着信音にしてたっけ、と思いながら出ると某大手ベンチャーの人事さん。
3次選考まで進んで、あえなく落ちた。残念だ!
お姉さんは理由っぽいものを教えてくれた。
「渦くんがやりたがっていることはかなり難しい」
それは僕も知っていた。
そして、「今の君では無理だから不合格」と続いたであろう言葉は人事のお姉さんの中に飲み込まれて消えた。
お姉さんは言いにくそうに続ける。
「でも、これで終わりにしてほしくなくて」
「秋に本選考もあるから…」
「どうですか?」
今回は縁がなかったけど、本選考も受けてね。
ということだった。お姉さんが言いたいことはよくわかったので、
「はい、その時は是非」
と答えた。今回ダメだったところを直してまた受ければいいと思った。
けど、答えながら、ちょっとムカついてしまった。
お姉さんは、不合格を知らせたら僕がヘコむだろうと考えて気を遣ってくれていた。
その声には「憐れみ」もちょっと入ってたように思う。優しい人なんだ。
その気遣いにちょっとイライラしてしまった。
はっきりとは言いにくいから察してね。
高コンテクスト文化を持つ日本人ならではのコミュニケーションだと思った。日本語ってその辺の融通が利くあたりいいと思う。けど。
ぶっちゃけ、はっきり言って欲しかった。
勝手に俺の心配をしないで。もっとスパッと言って次にまた気持ち良く会おうよ。夏休み明けに会った時に「あ、どうも…」みたいになりたくないよ!
高校生の告白かよ!
というわけで、今回の選考の一連の流れを高校生の告白風に置き換えてみました。
僕は夏休み前の今、好きな子(=某ベンチャー)に告白した。
同じクラスのあの子だ。おしゃれだし、多趣味だし、何よりしっかりしてる。
当然だけど、学校中で超大人気だった。みんな彼女と付き合いたいと考えていた。
けど、僕だって彼女のことが好きだから。挑まずにはいられなかった。
会いに行ったら他にも告白しにきた男が並んでたのにはびっくりしたけど、気にせず言った。
【一次:グループ面接】
「俺、君の事が好きなんだ。君と一緒に野外フェスに行ったり映画を見たり花火大会に行ったりしたい。きっと楽しい夏にするから。俺と付き合ってください。」
「ありがとう。でも、私、渦くんのこと全然知らないからいろいろ教えて欲しいな」
僕はいろんな話を彼女にした。これまで頑張ってきたこと、失敗した経験、趣味の話…
「返事はもうちょっと待って欲しいの」
「うん、待ってる」
自然な笑顔で手を振ってその日は帰った。
数日後、メールで呼び出された。
「またお話聞かせてよ」
【二次:個人面談】
今度は僕ひとりだった。ちょっと嬉しかった。
結構深い話をした。イケてると思ってる事業会社の話、将来やりたいこと…
「返事はもうちょっとだけ待ってね」
焦らすなぁ。また、ニコッと笑って帰った。
渋谷に住んでいる彼女は、眩しいくらいの笑顔で見送ってくれた。
【三次:面接】
また呼び出された。あと何回呼ばれるんだろう。
「この夏、私と何がしたいの?」
「えっとね」
いろんな話をした。高校生にしてはちょっと背伸びしたことも話した。
「すごいすごい!ワクワクするね」
「でしょ!!」
…
そして昨日。電話がきた。新宿は土砂降りだった。
「ごめん、私やっぱり渦くんとは付き合えない…」
「…そっか」
「ごめん…ごめんね。でもね、でも…これだけは言わせて」
「これからも友達で、いえ、私の事好きでいてほしいの。夏休みが終わっても。秋になったらまた話そうよ」
な…なにーッ!?
この子、何を言ってるんだ…?
フッた相手に…"希望"を…!?
魔性…魔性の女の子だッ…
こんなん、気まずくなるに決まってるぞ…!!
けど、諦めたくはなかったから。いつもの笑顔で、
「はい、その時は是非」
と答えた。
今日になって、彼女は最初から頭の良いイケメンたちを何十人も囲って遊ぶ予定だった、ということを知った。まあ、女の子ってそういうもんだろう。
そして僕は秋になったらまた性懲りもせず、また彼女に告白しちゃうんだろう。
その時までにイケメンを蹴散らすくらいにかっこいい男にならなくちゃなあ。
そんなことを考えながら、僕は僕で別のかわいい女の子のところへ告白しに行くのだった。
あれ、なんかこれ俺もベンチャーもどっちもクズに見えるな?
ま、18卒のみんな!選考落ちても気にせず、失敗を活かして次にいきましょう!
どっかのベンチャーで会えたら嬉しいです。ばいばい。
【書評】将来がわからず悩んでいる大学生は、一度落合陽一の本を読んでみてほしい。【読書は魔法ではない。】
将来は予測できる。
「人工知能が碁で人間を負かした」というニュースを聞いたり、「いずれ人間の職を人工知能が"奪う"」という話を聞いたりしたことがあるだろうか。2016年はAIやらVRやら、多くの人には「なんだかよくわからないけどすごそうなもの」が流行り始めた年として語り継がれるだろう。
僕が初めて「その手の話」を聞いたのは2015年の春だった。
人類は確実に次の段階に進もうとしている。そして、自分はその過渡期の時代にちょうど生まれた!こんなにワクワクすることはないぞ!と思ったことを覚えている。この話を僕にしてくれた相棒のエンジニア(親しみを込めてウォズと呼ぶ)には頭が上がらない。なにせ、彼は「僕の人生を拓いてくれた」といっても過言ではないからだ。
『自分の将来について考えたところで、結局よくわからないんだから考えても仕方ない』と片付けてしまう人があまりにも多いということに気がついたのもその頃だったように思う。
実はそんなことはない。ある程度、これから先の世の中はどうなっていくのか、は予測がつくのである。しかも、1500円以内で、200ページちょっとで。
日本がなぜ世界から遅れているか、説明できますか?
落合陽一という人物がいる。
詳しく語ろうとすると1000字記事が3つくらい書けちゃうので省略するが、誤解のないように書いておくと彼はAIやVRの専門家ではない。科学と技術を用いて魔法のような装置を開発している、今の日本を代表する研究者でありメディアアーティストである。
彼は研究者だ。だが、その教養はいわゆる「科学」にとどまらず、芸術や哲学や社会学、そして経営学にまで及ぶ。
その広く深い知見が語る「これからの世界」は、中高生向けと謳っているだけあってかなりわかりやすく描かれている。人工知能とコンピュータとインターネットがもたらす変化と現実に今起こっていることが書いてある。筆者の落合陽一先生が目線を向けている中高生はもちろん、僕の同世代の大学生にこそ、ぜひ読んで欲しい一冊だ。落合先生が思っている以上に、今の大学生は中学7年生とか高校4年生でしかない、と私文の僕は思う。
彼らには、それまで自分が「当たり前」と思っていたことが当たり前じゃないことを知って大きな衝撃を受けてほしい。少なくとも3回は価値観を破壊されるだろう。
例えば、
- 力ずくでなんとかなることはコンピュータにやられる
- 人間がコンピュータの「下請け」になる ※悪いことではない
- 「大企業に入ると有利」「外コン・外銀は強い」は最早幻想でしかない
など
挙げようと思えばいくらでも挙げられる。
日本が世界から遅れていることはなんとなく知っていても、それがなぜなのか説明できない大学生は、今からでも遅くはないから落合陽一先生の本を読んでみてほしい。
「そんな将来が来るなら、自分はどうしたらいいのか?」
という疑問に対して、ちゃんと答えてくれているから。
「自分」を持たない同期たちへ
少なくとも、今、「とりあえず行っておいたほうがなんとなく良さそうだから」という理由でサマーインターンの選考を受けている18卒はお願いだから「なぜそうなのか」を突き詰めてほしい。
大手ベンチャーのサマーインターンの選考でグループ面接を受けていると、驚くほどに「論理的思考力」だけで戦おうとしている人が多いことに気づく。
企業の名前と(金と)やっていることに乗っかろうとして、自分の実力を大いに示し、「さあ、俺はこんなに処理能力が高いよ!でも別にやりたいことはないから自分を好きに使ってくれ!」と自分から喜んで飛び込んでいく人があまりにも多すぎる。
親の代から変わらない価値観で戦ってもきっとあなたの思うような幸せは手に入らない。
いい大学に入り、大企業を目指しても「これまでどおりの安泰」は最早存在しないことは、すでに国内大手電機メーカーが示してくれているじゃないか。
なぜそうなのか。ぜひ、考えてみてほしい。
考えてわからなかったら一度、落合陽一先生の本を読んでみるといい。驚くほどわかりやすくされた「今、そしてこれからの戦い方を考えるヒント」がそこにあるから。
「なんとなく」ホワイトカラー=処理能力の高い人間=ジェネラリストを目指すのではなく、「確固たる理由」と「モチベーション」を持って唯一無二のクリエイティブ・クラスになろう。
僕はそういう人と一緒にこれからの世界を創っていきたい。
だが、読書は魔法ではない。
最後になるが、読書は魔法ではない。落合陽一先生の本を読んだからといってあなたは偉くなるわけでも、賢くなるわけでもない。知らないことを知っただけだ。
その情報をもとに、あなたがどう行動するか。
その一点に、落合陽一先生がこの本を書いた事によって生まれる価値がかかっていることを忘れてはならない。
20歳の僕からは以上だ。僕も言葉のつぎは行動で示そうと思う。
まだまだ2016年の夏は始まったばかりだ。(2105字)
書評企画「読書は魔法ではない。」を始めます。
だいたい70冊。
大学に入ってからこれまでの2年間ちょっとでぼくが読んだいろいろな本の数(漫画・雑誌除く)だ。図書館で借りた本はカウントしていないから、ホントはもうちょっとあるはずだ。
読書は、ぼくのたった20年の人生の中でも薄くとも絶えず続いてきた数少ない習慣のひとつだ。
小学校の時に児童文学にはまったのが始まりだった。
中学高校の時はあまり捗らなかったけど、それでも辞めなかった。受験が終わると、「竜馬がゆく」を貪るように読んだ。
大学に入り、世界や日本のトップレベルで勝負を仕掛ける人たちを間近で見て、知識をつけたいと思った。そんな気持ちから実用的な本ばかりを読むようになった。
昔からどんな時も、本の中にはぼくの知らない世界があった。
本を読めば知らないことを知ることができた。
自分が大きく、強くなった気がした。
だけど、それは本質だったのだろうか。
ぼくは本当に強くなれたのだろうか。
先月読んだ、瀧本哲史の「読書は格闘技」(2016)の冒頭の一文にハッとさせられてから、読書という行為を見る目が変わった。
(前略)書籍を読むとは、 単に受動的に読むのではなく、著者の語っていることに対して、「本当にそうなのか」と疑い、反証するなかで、自分の考えを作っていくという知的プロセスでもあるのだ。
ぼくのなかで、読書は受動的に楽しむ「芸術」だったから、この視点はかなり衝撃だったのだ。
ぼくの児童文学の読書体験は、「ハリーポッター」はもちろんのこと、知る人ぞ知る名作「バーティミアス」三部作や「マーリン」シリーズ、それに「ストーンハート」三部作に「ダレン・シャン」シリーズによって「西欧文明×ファンタジー」を形作り、最終的にはコルネーリア・フンケというドイツの女性児童文学作家にはまって「どろぼうの神さま」「魔法の声」「魔法の文字」などで表される「現実世界×魔法」という形で収束した。
それらの作品にはそれぞれの世界があり、ぼくは文章をなぞりながら心の中に登場人物の姿や街のアウトラインを描き楽しむことを覚えたのだった。
そんな原体験からか、ぼくは大学に入って本格的な読書を再開してからも、どちらかというと著者たちの声やその内容を鮮明に心のなかで展開し、言っていることを吸収する、という極めて受動的な読書をしていた。児童文学にはまっていたころのように、コルネーリア・フンケがテーマとしてかかげていた「魔法」にかかろうとしていた。
しかし、それは本質的ではなかった。
本を読んだからといって、現実のぼくがレベルアップするわけではない。
人は、本を読むことで考える視点を得る。(著者の言っていることは果たして正しいか?)
そうやって考えた結果から行動を起こすことで、初めて何かが変わる。
ぼくは、読書の持つ本当の力はそこにある、と今だからこそ思う。
読書は魔法ではない。
読書は、魔法ではない。
読書は、ぼくがそこに能動的に関わって初めて完成する。
だから、これからは読んだ本は書評として残すことにした。
書評の裏側にあるのは、リアルのぼくの人生、つまりはひとつのストーリーだ。
読書は魔法ではない。現実と戦うためには、ファンタジーは必要ない。
現実のぼくのストーリーと、書評を絡めてここに書いていく。
そういうことを、これからはじめようと思う。(1346字)
夏を追いかけろ!!やりたいことリスト作ったよ
夏がすぐそこで俺を呼ぶ
越えてゆく遥か夏のリスト
- 地方で1週間以上過ごす
- 現地の同世代と友達になる
- 夏祭りを楽しむ
- 野外フェスに行く
- 意味もなく徹夜で遊ぶ
- 山へキャンプに行く
- アコギ弾き語りライブ
- 海でのんびり釣り
- 2億円当てる
- 彼女
真っ暗な世界から見上げた夜空は星が降るようなリスト
- 新しいイケてる商品を創る
- 英語での「書き・喋り」を鍛える
- HTML+CSS+JSでサイトを作る
- サマーインターンで結果出す
- 今年こそ免許合宿へ
- 作曲:アルバム自主制作
- 何でもいいから賞を取る
- 親に「ありがとう」を伝える
- 仲間と協力して結果を出す
- 毎日必死に生きる
自分で自分を騙す技術の重要性 - 僕の特殊能力「インスタント・マッピング」を殺さないために
今日は僕の特殊能力(と勝手に自分で思っていること)をひとつご紹介しましょう。
それは「瞬間的にゴールまでの地図を思い浮かべるスキル」です。
「インスタント・マッピング」と呼ぶとカッコいいでしょうか。
どゆことかというと、いろんな物事に対して「こうするにはどうしたらいいかな?」と考えた時になんとなく「こうしてこうして…こう!」みたいな雑な道筋が浮かぶのです。
例えば、「中央線が動いてない!どうしよう!」となった時は、
・大学の授業開始まであと20分
・大学最寄駅に直通の電車はこの駅にはない
・地下鉄で行くと遅れる?遠い?
・タクシーは高いから使わない
=遠回りになるけど確実に行ける地下鉄を使い、途中でJRが復旧したらそっちに乗り換える
この辺まで大体5秒くらいで考えてさっさと歩き出します。
もちろん、発動できるのは頭がめっちゃ回ってる時に限ります。
で、今回のタイトル「自分を騙す技術」なのですが。
このインスタントマッピング、何かに挑戦するときに役立つかというと決してそうではないのです。
もちろん、すぐに「何をすべきか」考えられる時もありますが、基本的には「こうしてこうしてこう言う理由で今回のこれはできなさそうだ。だからやりたくない」という結論に至ってしまうことが多いのです。
瞬時に「やらないロジック」を考えついてしまうんです。
これが厄介。
小学校1年の時からベネッセをやらされていたので「チャレンジ精神」には溢れているはずの僕なのですが、今までの人生でちゃんとチャレンジできた回数は実は両手と片足の指の数で数えられるくらいなのです。少ない!
最近も、「本気でガガーッと取り組めていること」は実はそんなになくて、それやばいよなぁなんでかなぁと考えていたら上の「インスタントマッピング」の存在に気が付いたのでした。
さて、ではどうするか。
ここでもインスタントマッピングは本領を発揮します。
「できない理由を瞬時に考えるからのめり込めない」
「のめり込めば何かが変わる可能性は十分すぎるほどにある」
「のめり込むにはどうすれば良いか?」
「頭で考えるよりもはるかに速くやる、というのは無理」
「じゃあ、偽りの本気でやれば良いのでは?」
ここまで10秒くらい。
偽りの本気とは、つまりは自分で自分を騙すこと。
あるアイデアを思いついた時、最初にブワーと「のめり込めない理由」が湧いてきます。そのタイミングで「いや、俺これ本気でやらなきゃ絶対後悔するやつや」と自分に暗示をかけるのです。本心から来るモチベーションではないので、果たしてどれくらい効果が上がるのかわかりません。
でも、今回のブログも、「別にこの自分で自分を騙す話書かなくてもいいよな」から「書いといたほうが本気出せる気がする!」と思って書いているので、ちょっとずつ効果は出てきてるかも。
とにかく、本気っぽいフリをしてたらいつの間にか心の底から熱狂していた、ということになる可能性は大いにあるので、自分を騙しまくって熱狂出来るものをどんどん作っていきます。
おしまい!今日寒いね関東!
明日、渋谷が死んだら
この金・土・日と、渋谷で別々の用事があって、基本的に3日間、朝から夕方までを渋谷で過ごしていた。
渋谷はエネルギーの街だ。
古くからの百貨店が軒を連ね、チェーン店が鼻息を荒くして今日の稼ぎを更新し、新進気鋭のスイーツ・ショップや小さな服屋がその伝説の第一歩を踏み出そうとしている。その裏側では、様々なカルチャーの中心となるような店、あるいは劇場が、そして落ち着いた雰囲気のカフェたちが今日もじっくりどっしり構えている。
通りを行くのは、そんなカルチャーを一身に吸収して時代を作っていく若者たちと、そんな日本人を一目見ようと意気込む海外からのお客さん、スーツの上着を小脇に抱えて忙しそうに横断歩道を渡るサラリーマンたち。
街にも、人にも、エネルギーが溢れている街。それが渋谷だ。と思う。
今日もまた二酸化炭素濃度の高い人混みをかき分け、やっとの思いでたどり着いたスクランブル交差点で信号待ちをする。日曜日という状況と、選挙を控えた政党の演説に伴う混雑に備えた警察官がたくさん出動していた。
そんな人混みと警察と政治家を見て思った。
「今ここでテロとか事件とか災害が起こったら何人死ぬんだろう」
無い話ではない気がした。
世界はある日突然、理不尽にひっくり返ることがあるということを僕は知っている。
そこで命が奪われる可能性があることも知っている。
JFK、浅沼稲次郎、9.11、3.11、そして先日のバングラデシュ。
明日、渋谷が死んだら。
これだけエネルギーに溢れた街が無くなってしまったら。
僕らの未来はどうなる。
その時になってようやく、真面目に考え始めるかもしれない。
「これまでの毎日は、当然ではなく偶然の産物だったんだ」と。
実際、東京のテロ対策がどれくらいのレベルで行われているのかはよく知らないけど、誰かが、行動力と信念が一般人のそれを超越している誰かが、ちょっとした思いつきとともに行動してしまったら、いとも簡単にこのエネルギーの街は崩壊してしまうんじゃないか。
そんな風に明日のことを考えてしまった。
日曜日が終わるのは憂鬱だ。
明日もこのままであればいい、と思う一方で、現実の延長線上に十分あり得る選択肢としてそういう「崩壊」が常に存在していることを忘れてはいけないような。そんな気がしている。
明日、渋谷が死んだら。
僕はどうするだろう。
日本はどうなるんだろう。
あなたは、どう感じるだろう。
そうして、日常が遠ざかっていく。(1000字)