みんながみんな、「同じ世界」を見ている必要はあるのかな問題
昨日の夜、帰りの電車でぼーっとしながら思った。
世の中の大半の人の目には、同じように世界が映っている。捉え方や受ける印象は人それぞれ異なるかもしれないけれど、「同じ世界」が映っている。
でも、別にそれって絶対当たり前じゃないと思う。
サングラスをかければ世界はちょっと暗く見えるし、色盲の人は世の中が違って見えている。ひとりひとり、世界の見え方はちょっとずつ違ってもいいんじゃないかな。
という考えごとをしていた理由はこれだけ。
「帰りの電車は退屈だった」のだ。
外の景色なんて何も見えないし、人だらけであまり気持ちよくもない。
スマホを手に持つのも面倒だし、イヤホンを取り出すのも億劫。
だから、電車の窓を画面に見立てて、そこで映画とか番組とか流せるようにならないかな…と考えていた。
みんながみんな同じものを見たいわけじゃないし、何も見たくない人もいるだろうから「電車の窓を個人個人でザッピング」できるようになれば一番いいんだけどな。
みんな同じ窓を見てるんだけど、ひとりひとりの目に映ってる番組は違う、みたいな状態が理想だな。
VRだとかARだとか、だんだんそういう「見えるもの」に干渉する技術は出てきてる。
ごっついゴーグルとかメガネはつけたくないので、早くコンタクトくらいのサイズになればいいな、と思う。
今だって、みんな自分好みの世界が見ていたいから、電車の中でも家に帰ってもずっとスマホを覗いているんじゃないかな。
「スマホの次はどうなる?」なんてことがよく叫ばれていて、いろんなデバイスが提案されているけれど、本当の意味で「次」になりうるのはデバイスでなくて空間だと思う。
見えている世界をどういじるか。電車という空間をどう使うか。
次に僕らの暮らしをワクワクするものにするのは、この辺の話かな、と思った。