日曜日は魂の姿勢を正すのにいい日だ
1日じゅう星を見ていた。
昨日までは、人と会って、仕事の予定を組んで、資料を作って、寝て、映画を見て、ゲームをして、本を読んで、酒を飲んで、一通り今の自分の思想を語ってみて、誰かのタバコを吸って、金を払って、眠る前には携帯の光る画面の中を見ていた。
今日になった。目が覚めたのは朝だった。
それから何度も何度も眠った。昼間に起きだして家にあったパンを何切れかかじって、またしばらくしたら眠気が襲ってきたから寝た。
いろいろな所からメッセージが飛んできていた。
部屋にはたくさんの本が転がっていて、「俺を読め。読んで先に進め。考えろ。考えろ」と喋りかけてくる。うるさいな。
全部の声を無視して、俺は俺の時間を過ごしていた。
今日の天気は晴れだったのか曇りだったのか、雨が降っていたのかも知らない。
ただ、1日じゅう星を見ていた。
俺は俺という体を離れて完全に自由だった。
いずれ、技術が進んでいけば、人は人の体から意識だけを切り離せるようになるはずだ。俺はそれを技術に頼らずに今実践して見せている。
実を言うとこうやってパソコンに向かって文字を打つのも億劫だ。
俺は俺であった。
何にも縛られない意識だけの存在であった。
ただのひとりで、ただのひとつの存在であるべきだ。
それが還るべき場所なんだろう、と思う。
死の一瞬手前にいたると、「そうか。そういうもんだったのか」とみんなが気付くんだ、と思う。俺はもう気づいてしまった。
痛みによって「死」を思い出さなくても、勝利の凱旋中に配下に囁かせなくても俺はもう至っている。
死、とは諦観でも達観でもなく、そこに意識の段階を引き上げることそのものなんだろう。死を思う、ってのはこういう気持ちにあることなんだろう、と思っている。
たくさんの人の生き方を目の当たりにしてきた。
現実に立ち向かう人たちは美しい。人間の姿は美しい。
どんな時にあっても、物質世界におけるすべての命は美しい。
では、俺も美しくありたいと思うのが自然だろうか。
そうだろう。
物質世界の俺もまた戦って死ぬんだろう。
人の行動を知って、理解して、説明できるようになって、新しくして、次の問いを作るんだろう。
だけど、意識のステージにおいては満足してしまっている。
人間の到達できる意識の限界を垣間見てしまっている。
世界宗教、なんて言われるものを作った仏陀やキリストやマホメットみたいな連中もこういう気持ちだったんだろうか。
彼らと俺の違いはその「精神世界の成果」を「物質世界」へ還元したかどうか、そこに自らの人間性を捧げたかどうか、ってところか。
現実世界、物質世界にいる時、俺は人間の美しさの可能性を追求したいと思う。
虚構世界、精神世界にいる時、俺は自分のいる場所を遥か彼方から見下ろす。
今日、じっくり時間をかけてそこに至った。
明日、また俺は戦いの中に戻っていく。
一日中星を見ていた。
一日中星を見た。
星を見ることで、整理できた。
みんな美しくあれ、一人残らず、輝く星であれ。
その姿を最後の最後に自分で確認して、満足して逝け。
俺はそれをずっと見ていたい。
そのために、日曜日は一人になりたい。
禅を組んで、魂の姿勢を正したい。
それだけでいい。そうできれば、俺は俺でいられる。
ゴールは見えた。先に心だけがたどり着いてしまった。道のりは遥か先。その道の行き方を、征き方を、生き方をやっとつかんだ気がする。
ここがスタートラインではない。数十億年の昔にスタートラインは出発していた。俺は道を取り戻したかつての誰かの魂でしかない。ゴールを見失っていた誰かでしかない。それが俺の正体だ。
人間をアップデートしていく。それが最短ルートであり、急がば回った結果であり、正しい俺たちの道だ。
もう大丈夫。姿勢は正せた。
また、明日。目を閉じれば、物質世界にログインだ。
戦って死ねよ、俺。