画面を通せば「コンテンツ」/自分の目で見ることだけが「リアル」
今朝!特に何事もなく帰国して、時差による眠気と戦いながらなんとか日常に戻った0024です。
写真:サンフランシスコの宿泊先にて。優しい人が多い場所でした。
今回は、「画面を通して見る世界」と「自分の目で見る世界」の違いについて書きます。
読んでほしいのは、「イッテQ」などの世界系テレビ番組が好きな人と、2chやその他掲示板・ SNSなどで実在する人物について好き勝手書いたことがある人です。
画面を通して見る「コンテンツ」と五感で見る「リアル」の違い
皆さんはこれまで生きてきた中で何回くらい「自分の日常の住環境と異なる生活環境」に行ったことがありますか?
僕は今回のサンフランシスコでは、SoMAやチャイナタウン、ヘイト・アシュベリーなど雰囲気の違う街に色々行きました。
知らない街に行く時、僕の中ではいつも「不安」が勝ちます。
不安:期待=6:4くらいです。
日本国内であっても、無事に今夜の宿にたどり着けるだろうか?移動中に事故は起こらないか?起きたらどうするか?を絶対一度は考えるし、
海外なら言葉はちゃんと通じるか?犯罪に巻き込まれないか?体調不良や怪我をしないか、した場合はどうするか?といったことを考えます。
なぜでしょう?
あまり遠出しない人は実感がわかないかもしれませんが、その答えは「五感」にあります。
思っている以上に、僕たちは「視覚・聴覚・嗅覚・味覚」に影響されて生きています。
これらは普段はそんなに意識することもないですよね。
だって、眠っていない時は常に目は開いているし、肌や耳は常に周りの環境を脳にインプットし続け、僕らの舌はある程度決まったパターンの食事を毎日摂っているのですから。
僕らの体は、知らず知らずのうちに、「日常」という環境設定を脳に記録するのです。その値から大きく外れない限りは、精神は安定します。
「ああ、いつもの毎日だ」と。
僕はこの「環境設定」のために、日本の自宅から「PC」や「テレビ」や「書籍」を通して海外の様子や全く異なる生活を送る人について知る時、そこに「リアル」を感じません。
僕が生きているのは「地球」という星で、日本の海の外には異なる国々があって、そこに見た目や言葉や食べるものの異なる人々が大勢住んでいる。
この単純な事実が、僕には「理性」で理解できても「感性」では理解しきれません。
映像や画像を通して実在することはわかる。けど、本当にいるという実感はわかない。
この感覚、わかりますか?
なぜ彼らの存在するリアルさを実感できないのでしょう?
それは、目に映る「文字」、耳に入ってくる「言葉」や「生活音」、無意識に吸い込む空気の「におい」が「日本のもの」だからです。
映像や画像で一部の「視覚」は「現地入り」しますが、その他の五感は「日本」設定のままだからです
一つ、例を挙げてみましょう。
今回僕が行ったサンフランシスコ。Netflixで「フラーハウス」がやっているから、ああいう街並みをイメージする日本の人は多いでしょう。
実際、「フルハウス」のファンの僕は一部の街並みの雰囲気がドラマそのままということに感動しました。
ところが。
当たり前ですが、周りにある文字は全て「英語」、そして耳に入ってくる「声」も英語です。非日常感が高まります。
極め付けは、「におい」。
大抵は、くさいです。排気ガスと、生ゴミと、身体を満足に洗っていない「人臭さ」「獣臭さ」と、「スパイス」や「大麻」、きつい香水などの入り混じった空気。
これは言葉で説明しきれません。
昨年末に大学にて元WBSキャスターの豊島晋作さんのお話を聞く機会があったのですが、彼はこうおっしゃっていました。「においだけは伝えられない」と。
これらの五感情報は、テレビ番組やネットの動画でも紹介されません。そんなもの紹介する意味ないですもんね。「日本人に受けるコンテンツ」は、当たり前ですけど「日本人向けに加工された情報」です。できるだけギャップの無いように。でも目新しさは削らずに。その絶妙な距離感が大事なのです。
とにかく、何が言いたいのかというと、
情報技術の発達によってあらゆる世界の情報が入ってくるようになったとはいえ、自分の五感で感じるまでは、人は、というか特に僕は、その事実を「リアルなもの」として消化できないのです。「コンテンツ」として、映画やアニメのような、現実とは少し違うものとして経験してしまうのです。
「百聞は一見に如かず」、というより「百見は一訪に如かず」といった方が今の時代に適しているでしょう。昔は、「見る」には実際に行く必要があったのでこの諺が通用しますが、今は「見るだけ」なら地球上どこでもできますからね。
人物の「コンテンツ化」のメカニズム
この「百見は一訪に如かず」という事実は、同時に「人物」に対しても当てはまるとおもいます。
2014年あたりからいろいろな方が謝罪会見で世間を賑わしてきましたね。
小保方さんや佐村河内さんや野々村さん、最近ではゲスの極み乙女。の川谷さんなどですか。
多分、皆さん一度は「ネット上」もしくは現実の「会話」で彼らについて言及したことがあるでしょう。場合によっては「叩いた」人もいるかもしれません。
その時に、彼ら「渦中の人の実在」を意識したことはありますか?
僕は、人物の実在を感じるには、その人物を一度自分の目で見るか、もっと言えば会話をすることが必要条件であるように思います。
画面の向こうで見たことがあるだけでは、その人はあなたにとって「コンテンツ」と一緒なのです。
だから、好き放題言える。まるで「映画」の感想を述べるかのように、誰かの不祥事について「実在する友人」と話し合うのです。
僕にとって身近な例を幾つか挙げてみましょう。
有名どころでは、Tehuくん。
僕と同い年の彼はよく2chで叩かれているのを見かけます。未だに。別に、僕は彼の言動やそれについて述べる人の良し悪しに言及するつもりはありません。
彼があそこまでネット上に登場するのは、取り上げる人間が彼を「リアル」の人物ではなく「コンテンツ」と認識しているからではないでしょうか。
いや、取り上げる方は「リアル」と認識していても、それを見て書き込む方は「コンテンツ」と認識している方が可能性は高いかも。
僕は実際に彼に会ったことがあるし、隣で食事をしたこともあるし、功績も目の当たりにしています。多分、彼は僕の存在を知らないけど笑
とにかく僕はTehuくんを「リアル」として認識していますが、そうでない人たちは「コンテンツ」と捉えているのでしょう。
他には、高校時代の友人の話が二つ。
1つ目は、教授の親を持ち、ネットを好む友人が、高校時代の昼休みにひどく落ち込んでいた話です。
どういうことか聞くと、
こういう状況を知り、落ち込んでいたのでした。
匿名の不特定多数の相手が、自分の親を叩いている。
その時の彼の気持ちはもちろん、彼の親御さんの気持ちもわかりかねます。
ただ一つ言えるのは、「ネット上で叩く人々」の大半は、その対象の存在を無意識レベルで認識していないということです。
「実在している人に悪口を浴びせる」という行為は気がひけるものの、「誰かがコンテンツとして取り上げた人物なら別」というメンタルが働いているのではないでしょうか。
もう一つ。
詳しいことは伏せますが、高校の同級生のある女子生徒がテレビに取り上げられたことがありました。内容としては学生の頑張りを取材したものだったのですが、ネットの反応は違いました。
言ってしまえば、「エロい目」で彼女のことを捉えたわけです。
その番組放送後にスレッドが立ち、まとめられていました。
こういうことはよくありますね。
「○○(番組名)に出てた女の子可愛すぎwwww」みたいなもの。
完全にコンテンツになっています。
リアルは、画面と、何人もの加工を経て「コンテンツ」へと変化し、見る人の「娯楽」として消化されます。そこに、遠慮などありません。だって、リアルじゃないから。
「コンテンツ」と「リアル」を意識する重要性
つらつらと、五感の話と人物の話について書きました。
今回、僕が言いたいのは、「海外はいいぞ、海外に行け」とか「ネット叩きは良くない」ということではありません。
「自分のリアルを大切にしろ」
これです。
僕らの周りは「コンテンツ」で溢れています。
「リアル」は、もはや意識しないと認識できないレベルにまで消えました。
特に今の東京ではそんな感じがします。
あなたの「リアル」はなんですか?
五感で、実際にあなたに会った人だけが受け取ることのできる「リアル」はあなたにありますか?「コンテンツ」に埋め尽くされていませんか?
自分を無意識のうちにコンテンツ化しないでください。
「ああ、この人は自分のリアルすらも無くしてしまっているのだな」
と感じることがよくあります。
あなたが実際に目で見て、聞いて、吸う空気、話す言葉は間違いなくあなただけのリアルなのに、本人がそれに気づいていないことが多すぎる。
自分が今この瞬間に「生きている」ことを忘れないでください。
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前述した通り、僕は「五感で感じるまでは」そのものの存在を信じられません。
今、その「リアル」を確かめたいなあと思っているのはクジラですね。
でっかいクジラを一度見てみたい!
また、どっかに出かけるとおもいます。おしまい。