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DRILLOOOON!!!!

だいたい1000字くらいで20歳の夏の思い出を書き溜めます。

世の中、ずるいやつばかり。

感性の力を信じきることができていないからこそ

先日の記事はいろいろ突っ込みどころがあるのでちょっとあっためなおしてから推敲することにして…

 

去る2016/2/16(火)、こんなことがありました。

 

パイセン「この組織に対する不満を述べよ」

僕「みんなエモさが足りない」

パイセン「お前伝える気ないだろそれ」

僕「確かに」

パイセン「もっとわかる言葉で」

僕「もっと人生を有効活用してほしい」

 

何様だこいつは…とその場にいた全員が(そして今これを読んでるあなたも)おもったと思います。すいません。いつも言葉が足りないです。

僕が言いたいのはこういうことです。

 

  • 人間、心の病に罹らない限り、感性が死ぬことはないのだから、感性を最大に生かして自分の人生を全力で生きてほしい
  • 特に、大学生の間は理性的に物事を考えるよりも感性をいかに研ぎ澄ませるかが重要だと思う
  • だから、もっと貪欲に「胸が熱くなる何か」を探してみてもいいんじゃないか

 

主張の裏側

理性は広く見た時において感性の一部

世の中にあるすべての「もの」や「こと」を「理性的・感性的」の度合いで見た時に、「理性:0 感性:100」のものはあれど、「理性:100 感性:0」のものはそうそうないのではないか。

 

理性とは、個人の主観を廃した真を求める方向のこと。

それはつまり「理性を求めよう」という「感性」。

冷静に分析をすすめれば、
理性は感性の一領域である、という
結論に落ち着くとは思いますが、
歴史的にいえば、理性、には特別な
意味が付与されています。
すなはち、理性=神 神に与えられた理性、
理性に基づく研究 という図式が近代実証科学その他
の近代文明を支えてきた史的事実があるからです。
この文脈でいくと、感性は単なる個人に還元さえる
感覚であり、理性とは=真(善美)に至る手段、
道標ということになります。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 

であるならば、人の行動は必ず「感性的な要素」を含む。

 

そのはずなのに、

「理性:30 感性:20」くらいの比重しか人生を使っていない人が多いように見える。

(そうでないというのなら「そうでない」といってほしい)

残り50%の領域を未使用のまま若い時を過ごすのは「良くない」と思う。

 

僕が「理性:15 感性:85」くらいの生き方だから特にそう思ってしまうのかもしれない。

それでも、自分の人生の領域を使いきれていないな、と思った人は是非なんとかして「100%」使い切ってほしいのだ。

 

これもまた、自分勝手な、極めて感性的な僕の主観の押し付けになってしまっている。つくづくひどい、見当違いなんだと思う。

どんなに「頑張れ」と言われてもうまくいかないものはうまくいかない!感性の力が足りなくなってもしょうがないだろ、と思う人もいると思う。その通りだと思う。

 

だがあえて今、この時、大学生の「今」だけは「感性の力」を信じてみたい僕がいる。

 

感性の力で自分を引っ張りあげたい。現状をどうにかしたい。「頑張れない」ままではいけないとわかりつつもどうにもできない状態を脱したい。そんな時にグッと力をくれるのはいつだって感性だと思う。だからその力を発揮できていないな、と思う人には背中をドカンと押させてほしい。あなたが頑張る姿に元気をもらいたい。頑張る勇気をもらいたい。だからその背中を押させてほしい。

 

無責任である。身勝手である。と言われればそれまで。

 

でも、たまには感情論100%のことも言わせてほしかった。というのがここ数日の僕でした。おしまい。