女に生まれていたらナンパされまくりの人生だったかもしれない
街中を歩いていると、キリスト教系の人に声をかけられることが多い。
それはもうほぼ毎回。
原因は多分顔。俺はたれ目なのです。
マジでこんな( ´ v`)なので、話しかけやすいんだと思う。
ティッシュもめっちゃもらえる。キャッチにもすごい狙われる。
免許合宿にも誘われるし、裸眼なのに眼鏡の度合わせに誘われたこともある。誰でもいいんかい。
今日も渋谷を歩いていたら声をかけられた。
特に急いではいなかったし、悪い人ではなさそうだったので暇つぶしにお喋りすることにした。
お姉さん「学生さんですか?」
俺「はい、なんですか」(この時点でもう勧誘だと気づいている)
お姉さん「何を勉強されてるんですか?」
俺「経営学です」
お姉さん「なんでその道を選んだんですか?」
俺「お金のこと知っておけば悪い大人に騙されないかも、と思って」
こういう普通の質問からその人の人間性について掘り下げるタイプは、たいてい「心のセミナー」みたいなよくわかんない人生論を説かれる会に連れて行かれるやつだ。
お姉さん「今、そういう学生生活楽しいですか?」
俺「はい!知らないことを知るのは楽しいです。」
お姉さん「なるほど。じゃあ、もっと自分のことについて知ってみませんか?」
きた。何人も無視されてきたであろうお姉さんの渾身の一言。
お姉さん「こういう方がいて〜、今まで何千人に講演していて〜云々」
デザイナーにあまりお金を払わなかったのか、素人が作ったのか、というレベルの印刷物を見せられる。それっぽい心理学の解説の図も載っていた。
俺「すっごいですね」
お姉さん「今まで自分のことについて深く考えたことあります?」
俺「そりゃあもうたくさん考えてますよ」
お姉さん「…」
仕掛けてみた。
多分マニュアルから外れたのだろう。お姉さんが一瞬止まる。
お姉さん「というと、どんな風に?」
怯まずに仕掛けてくるお姉さん。
俺「延暦寺で座禅したことがあってですね」
※マジです。中学校の修学旅行で。
つらつらと当時の悩みや、友達がふざけていたらお坊さんがブチ切れたエピソードや比叡山からみた朝焼けの美しさについて語る俺。
初対面で、もう二度と会うことはないであろうキリスト教の人+暇
=「宗教クロストーク」
なかなか普段の生活ではできない会話。途中からみたら俺がお姉さんを勧誘しているように見えたかもしれない。
お姉さん「その年でそういうこと考えてるってすごいですね!」
仏教、流された。
俺「いやー意外とみんな考えてるんじゃないですかね。言わないだけで」
お姉さん「なるほどなるほど」
流された。
なかなか面倒くさがって解放してくれない。俺だったら街中で仏教体験の話されたら絶対「あ、もういいですありがとうございました」っていうけどな。
そこで、以前から聞いてみようと思っていたことを聞いてみた。
俺「お姉さんの入ってる宗派の教義って、いわゆるカトリックとかプロテスタントとどう違うんですか?」
お姉さん「興味あります!?」
一瞬、ギラッとした目つきになるお姉さん。怖い。
こっちから内容に突っ込んだら意外とボロが出たりするのかな、と気になっていたのである。
俺「僕の大学、一応カトリック系で、みんな軽〜く勉強させられるので」※マジです
お姉さん「うちの教会は○○原理っていうのを扱っていて、それは聖書の解釈がこうで〜」
お姉さん「禁断の実を食べた、っていうのは不倫のメタファーで〜」
ゆうに15分くらい語られた。
マジで全くついていけなかった。勧誘のお姉さんなめてた。
一生懸命説明してくれるお姉さんはいい人でした。
最後にもう一押しセミナーに勧誘されたので、丁重に断ってお別れしました。
暑い中ご苦労様です。
…なんか自分が仏教の話をしたのすごい気持ち悪いなぁ…と書き終わってから思いました…というか、本職の方に申し訳ないです。
多分キリスト教系の人に声かけられてももう二度となめてかからないです。勉強になりました。終わり。
みんなインターネット大好きだよね。
インターネットで夢をつかんだ人は何人いるんだろう。
インターネットで人生が壊れた人より多いのかな。
1995年に生まれた僕はインターネットと一緒に育ってきた。
おそらく、現代社会もインターネットと一緒に育ってきた。
インターネットで飯を食ってる人は世界に何億人いるんだろう。
※これは、ネット関係の会社で働いている人や動画クリエイター、配信者、プロブロガーだけでなく、スマホやパソコンを見ながら昼ご飯や夕ご飯を食べる人も指している高度な表現である。
とにかく、生活の中にはインターネットが完全に融合している。
朝起きて、まず携帯をチェックするとそこにはインターネット経由で手に入れたニュースアプリやSNSの通知が入っていて、それを眺めていると会社や学校に着く。
人によっては仕事してる間じゅうインターネットに接続しているだろうし、しゃべりたがりなティーネイジャーもコミュニケーションに障害ありなハイティーンもしゃべること・考えることの数十パーセントはインターネット由来のことだろう。
時間を持て余すと人は「リアル」(インターネットが生活の半分かそこらを占め始めた頃に登場した言葉)から「ネット」へ心を映し、自分の実生活とは全く関係のない赤の他人が顔出しで批判の対象になっているのを見て心を満たす。時にはその祭りに参加するし、心の中身も垂れ流す。
みんな、インターネット大好きだよね。
歌って踊って喋っているところを動画に撮ったり配信したり、それを見て時間をつぶしたり、ブログを漁って話題を見つけたりそれを叩いてみたり、名前も顔も知らない(あるいは両方一方的に知ってる)人の機微に心を動かしている。
そんなの全然、本質的じゃないのに夢中になっちゃう。
そいつがどうなろうと、何を言っていようと、いくらあくどい手でお金を稼いでいようと、全然自分の生活には影響ないことの方が多いのにね。
インターネットって不思議だね。
高度なテクノロジーはその存在を環境に溶け込ませて存在を認知されないというけれどまさにその通りだと思う。今の日本ならどこにいても大抵電波はつながるし。
その存在や生活への影響度を知覚するのはスマホやパソコンが何らかの理由で使えなくなった時ぐらいかな。
例えば政治の話題とか、自分の生活に影響ある話題なら必死になって言葉を発信して意見をアピールする、っていう行動は理解できるんだけど、その行動も「インターネット経由」、つまりは仮想世界を経由してリアルに干渉しようとしてるわけで、全然本質的じゃない。人間って全然合理的じゃないし効率的じゃないよね。
一部の人や企業はそれに気づいていて、インターネットを「手段」と認識して有効に利用してお金を稼いでリアルを潤わせているわけだけど、たいていの人はインターネットを「目的」にしているんだもんね。
みんなインターネット大好きだよね。
もう一段、本質を掘り下げると
みんな他人と関わること大好きだよね。
喧嘩したいし意見を聞いてもらいたいし面白いものはたくさん見たい。
それって抗いがたい魅力なんだろうな。
24時間、いや睡眠時間を除いた16時間を一生懸命働かなくても生きていけるようになった現代(確か産業革命前は人口の70~80%は農業従事者)では、時間が余っちゃってしょうがないから、インターネットで時間を潰す。インターネットに繋いで何かを見たり聞いたり書いたり喋ったりすることが至上命題、目的になる。
そこに目をつけた会社や個人がインターネットを利潤や自己承認欲求の満足を生み出す「場」「手段」として利用する。
ここに「認知の格差」は存在する。
インターネットを「手段」として利用する人はこの先もきっと本質を忘れないけど、インターネットが「目的」になってしまっている人は右に左に流されていく。それが心地いいから。
人間のそういうところって面白いと思うし、僕もインターネットは大好き。
ただ、手段としてうまく使っていきたいな。終わり。
蝉のように生きられたなら、と彼女は言った。
もうすぐそこに夏が来ていた。
明日にでも梅雨は明けて、湿気と体調不良に悩む現代人たちは「クーラーをつけっぱなしにすること」への罪悪感を覚え始めるのだろう。
彼女はいつものように、図書館の5階の書庫の一番奥にいた。
灰色のパーカーのフードを深くかぶり、綿のスニーカーを脱ぎ捨てて。
個人用の勉強机の椅子の上で膝を抱いて、窮屈そうに眠っている。
僕が向かいの席に腰を下ろしてMacbookを開くと、ちょっとだけ顔をこちらに向けて迷惑そうな視線を投げてきた。
彼女は集団には染まらない。
いつもひとりで丸まっていた。
「今は私だけの時間を過ごしていたいんだ」
「そのうち、地上に出なきゃいけない時が来るってことも知ってるけど」
誰もが一度は考えたことがあるようなセリフをつらつらと吐く彼女のことを僕は羨ましく思った。
彼女は本当に自由だった。
誰とも深く交わることなく、自分だけの時間を過ごしている。
好きな音楽を聴いて、好きな服を着て、毎日好きにしていた。
日の当たる地上で生きているはずの僕だけど、そんな彼女のことが羨ましいと思う。
アナトール・フランスはこう言った。
「もし私が神だったら、青春を人生の終わりにおいただろう」
僕はこの言葉に蝉の一生を思い浮かべる。
彼らは、土中の生き物だ。
そして、人生最後の一週間だけ「地上」に出てきて、人生の伴侶を探す。
その命の有り様を最後の一週間にかける。
とても美しい生き方だと思う。
「蝉みたいに生きたいんだ」
ある時彼女は眠たげにそう言った。
僕は彼女の寝不足の理由を知らない。
「どういうこと?」
「もういいかな、って思ったらセックスして子供産んで、顔だけ見たら育てずに死にたい」
「子供を育てたくはないのに、作りたいとは思うの?」
「生まれてきたからには命は繋いだ方がいいんじゃないかなって思っただけ。別に子供が作りたいわけじゃないよ」
「それで生まれてきた子供はどうなるんだろう」
「私の子供だよ?きっとひとりでも好き勝手に自由に生きていくよ」
それ以上言葉はいらない、とでも言いたげに目を細めて、彼女は灰色のフードを深くかぶった。
すぐに寝息が聞こえてくる。
彼女の、誰にも邪魔をされない時間が再び流れ始めた。
もう、すぐそこに夏が来ていた。
好きな人がいないって、もったいない!!!!
きっかけはライバルとの再会
向上心はあるか。
この夏、愛を取り戻すとき
- 向上心が生まれる
- 身なりが整う
- 人間関係が良くなる
- 苦しい時に踏ん張りが効く
- どう転んでも成長する
駅で目にしたなんとなくいい風景。
みんながみんな、「同じ世界」を見ている必要はあるのかな問題
昨日の夜、帰りの電車でぼーっとしながら思った。
世の中の大半の人の目には、同じように世界が映っている。捉え方や受ける印象は人それぞれ異なるかもしれないけれど、「同じ世界」が映っている。
でも、別にそれって絶対当たり前じゃないと思う。
サングラスをかければ世界はちょっと暗く見えるし、色盲の人は世の中が違って見えている。ひとりひとり、世界の見え方はちょっとずつ違ってもいいんじゃないかな。
という考えごとをしていた理由はこれだけ。
「帰りの電車は退屈だった」のだ。
外の景色なんて何も見えないし、人だらけであまり気持ちよくもない。
スマホを手に持つのも面倒だし、イヤホンを取り出すのも億劫。
だから、電車の窓を画面に見立てて、そこで映画とか番組とか流せるようにならないかな…と考えていた。
みんながみんな同じものを見たいわけじゃないし、何も見たくない人もいるだろうから「電車の窓を個人個人でザッピング」できるようになれば一番いいんだけどな。
みんな同じ窓を見てるんだけど、ひとりひとりの目に映ってる番組は違う、みたいな状態が理想だな。
VRだとかARだとか、だんだんそういう「見えるもの」に干渉する技術は出てきてる。
ごっついゴーグルとかメガネはつけたくないので、早くコンタクトくらいのサイズになればいいな、と思う。
今だって、みんな自分好みの世界が見ていたいから、電車の中でも家に帰ってもずっとスマホを覗いているんじゃないかな。
「スマホの次はどうなる?」なんてことがよく叫ばれていて、いろんなデバイスが提案されているけれど、本当の意味で「次」になりうるのはデバイスでなくて空間だと思う。
見えている世界をどういじるか。電車という空間をどう使うか。
次に僕らの暮らしをワクワクするものにするのは、この辺の話かな、と思った。
「オリオンの光、あるいは奇人の書く小説のような、過激な革新を起こせ」
Do
Radical
Innovation
Like
Light
Of
Orion
Or
Oddity's
Novel